1、 国鉄時代の事故問題と動労千葉の闘い
利権と「赤字」と事故
1964年、東京オリンピックの年に東海道新幹線が営業を開始し、国鉄は「赤字」に転落した。そして、その前々年、1962年3月5日に三河島事故、前年の1963年の11月9日には鶴見事故が発生している。 高度経済成長政策を基調とする「55年体制」下で、国鉄は、国の大動脈である鉄道輸送機関であると同時に、新幹線をはじめとする新線建設やさまざまの工事等々、財界と自民党にとって、汲めども尽きぬ「利権の海」であった。 国家予算、財政投融資、独占金融資本からの借金等々、あらゆる財源を国鉄を濾過して独占大資本のもとに帰す。 この利権の追求によって意図的、政策的に発生させられた「赤字」のために、国鉄労働者の賃金をはじめとする労働条件や福利厚生、そして、列車の安全は常に圧迫され続けた。 利権と「赤字」と事故。これは、公共企業体・国有鉄道の歴史を通して、常に一体のものであった。 一方、この高度成長政策は、人口の大都市集中とドーナツ化現象(その対極としての地方の過疎)を生み、貨物輸送中心であった国鉄を通勤通学輸送と新幹線を軸とする旅客中心の鉄道へと変貌させた。この過程で、「過密ダイヤ」をはじめ安全に関する問題が次々と発生し、国鉄労働者と利用者にさまざまな苦難と犠牲を強いてきた。 国鉄労働者にとって最大の苦難は、常に事故問題であった。 利権のための「我田引鉄」が強引に推進される一方で、「過密ダイヤ」解消のための対策や安全対策は、「事故が起きなければ何もやらない」という後手後手の対策に終始した。この体質化した安全対策のおくれと不十分性のため、多くの国鉄労働者と利用客が犠牲となっている。
要員合理化と事故
また、「赤字」を理由とする大幅な要員合理化計画が、常に、国鉄の施策の中心にあり、このことが国鉄の安全に重大な影響を与え続けてきた。 1945年、敗戦で戦地から引き揚げてきた将兵や「満鉄職員」等を大量に受け入れ、公社化された国鉄の職員数は最大60万人超にまでふくれ上がった。これが、下山事件、三鷹事件、松川事件等が続発する朝鮮戦争前夜の騒然たる状況のなかで強行された「行政整理」などで、47万人台にまで切り縮められた。 そして、高度経済成長政策下で業務量が増加しているにもかかわらず、「第一次5ケ年計画(5万人合理化)」等、スクラップアンドビルドを標榜する「合理化」攻撃が強行された。闘う労働組合解体を目的とするマル生攻撃や動労・革マルの「貨物安定宣言」による裏切り・変質・さらには、20兆円にも達しようという「赤字」解消のためとして、
「35万人体制」が打ち出されるなどの経過を経て、動労千葉が独立した1979年には、「国鉄職員」は42万6千人となっていた。 そして、80年代・中曽根の登場によって、国鉄は「戦後政治の総決算・『行革』の目玉」として押し出され、この攻撃のなかで、1985年には32万人、「1987年4月1日、分割・民営化」移行時には、本州三社、3島、貨物の7社に分割された鉄道事業従業員は、実に18万人余に切り縮められてしまったのである。 この生産現場の実情を全く無視した空前の要員合理化の全過程で発生したのはむしろ当然と言うべきである。高度経済成長政策下での人口集中と過疎、モータリゼーションの流れと物流の変化。財界と自民党の利権追求による膨大な「赤字」と、これを口実とする法外な要員合理化と安全の切捨て、そして、一旦事故が発生すれば総べての「責任」を押しつけられ、「死か牢獄か」を強制される労働者。国鉄時代の「事故・安全」をめぐる状況は以上のようなものであった。
「反合・運転保安」の原点 船橋事故闘争
千葉県の人口は、今日までの約30年間に、200万人台から500万人台へと爆発的に増大した。 まさに過密・ドーナツ化の真っ只中で、われわれの職場は、全くのローカル線(SL)から「管内全線気動車化」を経て「全線電化(国電化)」に至る。文字通り、「合理化につぐ合理化」と「業増につぐ業増」の連続する30年間であった。 国鉄全体が「赤字」の斜陽産業であるとされ、「要員不増」が経営の根幹であるとされる状況下での間断なき「合理化と業増」は、すべての施策・当局提案に対し、厳しい反合闘争を貫徹することなしに生きる道がないことを、常に、労働者に突きつけていた。 とりわけ、「死か牢獄か」を日夜突きつけられる動力車職場で働くわれわれにとって、この事態は深刻なものであった。 現に、船橋事故の当該運転士は動労千葉組合員であったし、分割・民営化前の騒然たる状況のなかで未整備踏切でタンクローリ車と衝突して殉職した勝浦支部・平野運転士をはじめ、何人かの犠牲者が組合員のなかから出ている。 こういう状況下で、われわれの、反合・運転保安確立の闘いは形成されてきたのである。 船橋事故闘争が動労千葉の反合・運転保安確立の闘いの原型を創る闘いであった。 船橋事故は1972年3月28日に発生した。三河島事故からちょうど10年目である。 三河島事故が「行政整理」から10年余、朝鮮戦争特需などを皮切りとする戦後復興のための貨物中心の国鉄から、旅客中心へ転換する時期の事故であることを象徴するような貨物列車と電車の衝突事故であり、貨物側線からの出入りや停止信号に対する扱いを無理しなければ、定時運転が難しくなっているという時代状況を象徴する事故であるとすれば、船橋事故は、三河島事故後「安全対策の切り札」として投入されたATSが、列車の時分間隔が「2分半ヘッド」と極限まで切り縮められ、無力化したことと、ATSの制限の範囲を超えた運転をしなければ定時運転ができなくなっている状況を示す事故であった。 同じ時期に、五反田駅、お茶の水駅でも同様の電車同士の追突事故が起こっている。構内閉塞信号機の導入による列車一編成が入り切らない短小閉塞区間の設置、下り込みでカーブしたホーム等が各事故の共通項となっている。 動労千葉の船橋事故闘争の本質は、「責任はすべて当該運転士にある」とする押しつけに対して「事故の原因は、『過密ダイヤ』と合理化の強行にあり、真の責任は当局にある」という当たり前のことを主張し、当該労働者(全労働者=自分自身)を守り切ることにあった。 この闘いは、当該運転士の非を認め、責任の軽減を要請する請願闘争ではない。全組合員の腹の底からの怒りに立脚した数波にわたる遵法闘争とストライキが職場・生産点で貫徹され、当局に設備上の改善をさせ、当該運転士の職場復帰をかちとった。
「事故」は労働者の責任か
この闘いは、労働組合内に存在する「事故は労働者の責任」という抜き難い意識との闘いでもあった。
当時、動労は「5万人合理化・助士廃止反対闘争」を激しく闘い、1000人もの解雇者を出し、組織的には強くなったが、助士廃止を阻止することができなかったことにより、反合闘争をどうするかという路線的壁にぶつがっている状況にあった。 動労千葉は、この船橋事故闘争を闘い抜くことを通して「反合・運転保安確立」の路線的方向性を確立した。そして、管内全線電化と対決し、線路の劣悪化に対して日常的安全闘争を職場・生産点で展開し、「ダイヤ改」の度に、この日常的な列車の遅延をダイヤに反映させて乗務員の労働条件改善をかちとるなど、新たな反合闘争を実践・創造していった。 三里塚・ジェット闘争も、労農連帯を追求する闘いであると同時に、もしジェット燃料輸送を当局提案通り強行されてしまえば、それでなくても要員不足のなかで、さらに100人もの機関士が要員合理化されるということに対する闘いでもあった。 労働組合の闘いは、いかなる課題をかかげた闘いであっても、要求に基づく職場・生産点の労働者の大衆的決起に依拠した実力闘争として貫徹されなければ、いかなるボス交も、時間の経過とともに必ず資本の足下に屈服させられる。 動労千葉は、船橋事故闘争を起点に、管内全線電化、三里塚・ジェット闘争、そして国鉄分割・民営化阻止闘争と、原則を守り、組合員(全労働者)の階級的利益を守る闘いを貫徹し、今日も闘い抜いている。 JR総連・革マルは、助士廃止反対闘争以降の反合闘争から逃亡したがゆえに、「貨物安定宣言」に走り、遂には財界と自民党の先兵として階級移行し、国鉄分割・民営化で20万人もの国鉄労働者の首切りに手を貸すという恥ずべき存在に転落した。 「20万国労」は、船橋事故の当該運転士と同様な立場の組合員を多数抱えながら、職場・生産点の力に依拠し、大衆的な闘いの展開を通してこれを守るという闘いを実践しなかった。そのため、職場・生産点と指導部の真の信頼関係を育てることができず、分割・民営化の嵐のなかで、指導部の政治的、セクト的立場を優先させ、マル生闘争で培った職場の戦闘力を霧散させ、組織を分裂・崩壊させ、多数の国鉄労働者を悲嘆の淵に追い込んだ。 われわれは、真の反合・運転保安確立の闘い、「事故」と要員合理化に対決する職場・生産点からの大衆的決起を軸とする闘い、これこそが国鉄労働運動の原則であるということを銘記しなければならない。この闘いのなかに国鉄労働者のすべての労働条件が包み合されている。JR化されて4年、この闘いは、職場・生産点からより一層渇望される闘いとなっているのである。
2、安全を破壊した分割民営化
JR化されて以降、安全・事故をめぐる状況は一層悪化している。 国鉄分割・民営化は「戦後政治の総決算」をかかげた極めて政治的な攻撃であると同時に、大要員合理化攻撃であった。 その実態と本質について、「シンポジウムこう解決すべきJR採用差別事件」での北海道教育大学名誉教授・三好宏一氏の次の発言が極めて分かりやすい。 国労北海道本部主催・報告提言集)
〈続発する事故・災害〉 …前段で、JRになってから ①社員と下請労働者に殉職が多い、 ②東中野事故をはじめ重大事故が数多く発生し、 ③事故件数は1987年より88年の方が23パーセント増加している。 こと等を指摘した上で、 「私はこれまで多くの産業の労働者にお会いしてきましたが、国鉄労働者ほど安全、それも乗客の安全という言葉を口にする労働者に接したことはありません。 炭鉱労働者も『保安』がうるさかった。しかし国鉄労働者ほどではありません。ですから、これは国民をひきつける手段ではないかと疑ったほどです」 中略 「思えば、明治5年、汽笛一世の時代から、国鉄当局は『安全』問題をここまで叩きこんで数十万の労働者を育ててきました。これは日本という国の偉大な財産でした。このお蔭で何百人の命が助かっていたか知れません。」 中略 「いまのJRは、この貴重な財産を(そして国鉄一体の歴史ある人間関係も)すっかり投げ捨てている。『ひと』も『もの』も見分けのつかないほど冷徹でニヒルな企業至上主義。ここでは乗客は営業収入の道具にすぎません。また『その操作はひとに頼ること大』とは、事故の原因をあげて労働者の責任・ヒューマンエラーに帰す懲罰・競争主義です。 あの三河島大事故で国鉄は旧来の『安全心得』に加えて、周密頑強な『運転取り扱い基準規程』をつくりました。以来、大事故はなくなった。しかし分割・民営と共にこの規程は消滅し、『安全心得』の水準さえ不確かになっているのではないでしょうか。(既に職場労働者の安全への燃えるような自発性=要求を圧しつぶし、『事故がおきたら会社が責任を負う。お前達は言われる通りやればよい』という体制になっています)」
中略
〈要員・仕事と災害〉 「以上の『安全』の問題は要員問題と深い関係があります」 以下、北海道の要員について 略 〈炭鉱の目から〉 「おわりに一言つけ加えておきたい。私の炭鉱調査をつづけてきた眼からすればJR北海道は危ない道を走りつづけています。エネルギー革命と言われた三池争議の頃、政府・経営者団体は炭価を1200円引き下げれば、なんとか石 油に対抗して現況=生産規模は維持できると考えました。 炭価引下げは営業収入の減少です。その場合、配当・利子・減価償却費等は一円も削減しないで、カットは物件費とくに人件費の圧縮=首きり7万人で解決しようとしました。それが三池・田川、北海道では夕張・幌内・茂尻などの大災害をひきおこした。さらに深部採炭への移行一これは未経験の事業なのに一は、とにかく、人間を放りこんで採炭を強行しました。経産省の保安法規改訂は事故の後追いだけでした。その結末はあの夕張炭鉱の事故であり、死者97名だけでなく炭鉱そのものが消滅しました。 JRはそういう暗い一面を持っています。 労働者は失業の恐怖と生活から無理を承知で突っ込んでいく。 組合幹部の一部は経産省の生産計画(実は負債ころがし)第一主義になり、「保安」を叫ぶ労働者を生産疎外者とまでレッテルをはり、ついには会社に協力して事故・違法の隠蔽(官庁への届出をさぼる)までしていました。 しかし結局は会社も組合も幸福になれなかった。運輸業=JRは、炭鉱と同じく売上の半分以上が人件費という労務産業です。みなさんの奮闘を念願してやみません」 以上の三好名誉教授の発言は、ほぼ端的に、国鉄分割・民営化における事故(安全)と要員合理化の関係を言い尽くしている。
3、事故の連続 JR3年間
余部事故から東中野事故まで
JR化されて「安全」の状況は極限的に悪化した。現在も悪化し続けている。 第一に、分割・民営化直前の「余部鉄橋事故」から「東中野事故」に至る重大事故を見てみよう。
☆分割・民営化の約3ケ月前、1986年12月28日、山陰本線・余部鉄橋で、列車が鉄橋の下へ転落するという「考えられない」事故が発生し、鉄橋下の住民五人と車掌一人が死亡した。原因は、列車指令が、列車を止めるべき強風警報が出ているのに列車を止めなかったからである。
☆分割・民営化後、まず1988年3月30日、「アルカディア号」の炎上事故が発生した。危うく学童数十人を焼死させるところであった。原因は、新潟のゴマスリ革マルが、もともと欠陥車で車庫の片隅に放置されていた気動車にペンキを塗って「増収活動」をしたからだと言われている。
☆1988年に入ると重大事故が連続して発生する。 (1)1988年8月29日、東北本線・六原~北上間で貨物列車の脱線・転覆事故が発生している。 原因は、保線の職制が雨量計の数字をごまかして、止めなければいけない列車を走らせたことである。 (さらに、この職制達の上司・盛岡支店の幹部達は事故が起こってから雨量計の記録を改ざんし、国土交通省東北運輸局から『厳重注意』を受けた) (2)同年10月19日、上越線・敷島~渋川間で下り貨物列車が脱線・転覆したところへ上り貨物列車が衝突した。 原因は、第一事故・下り列車の脱線は車軸の欠陥であるが、第二事故・上り列車との衝突・脱線・転覆は、列車指令が、第一事故の脱線貨車(少なくとも逸走車両)があることを承知しながら「注意して運転しろ」と上り列車を発車させたことである。 (3)同年12月5日、中央線・東中野駅構内で電車の追突事故が発生、運転士と乗客一人が死亡。
原因は、この間明らかにしてきたように、 ①88年12月1日に実施された「ダイ改」によるムチャクチャなスピードアップ強行、 ②千葉支社・河野車務課長などの「赤信号でATSが鳴っても、信号を越えて進め」という指導、 ③「30秒遅れたら処分」という日常的締め付け、 であることは明白である。
連続する重大事故の本質
この一連の事故に共通していること、それは前述した三好教授の、「労働者は失業の恐怖から無理を承知で突っ込んでいく」「組合幹部の一部は生産計画第一主義となり」、「『保安』を叫ぶ労働者を生産疎外者とまでレッテルを
張り」、「『事故・違法』の隠蔽までする」、
という指摘をそのまま体現していることである。 この東中野事故頃までの時期は、国鉄労働者のすべての労働条件や権利を敵に売り渡しセクト的・政治的に生き残ることしか考えない革マルと、この革マルと一体化し、自分自身の「出世とポスト」だけを考える一部.職制…。そして、大部分の労働者は、「長いものに巻かれる」意識であったとしても…。 鉄道労連組合員の相当の部分は、純粋に「分割・民営化~バラ色の会社」を信じ「やる気」に燃えていたといえる。その「やる気」が、末端職制(ほぼ全員が鉄道労連組合員)を中心とする労働者を「『ひと』も『もの』も区別のつかない」心理状況に追い込み、増産運動、「小集団」、「ただ働き」への竹ヤリ精神運動へ走らせ、「赤信号でも列車を走らせる」、「定時運転確保のためなら何をやってもよい」という全体状況…止めなければいけない列車も止められない事故頻発の状況…を作り出したのである。 「JRになってから事故と殉職と突然死が急激に増えた」と多くの(ほとんどの)国鉄労働者が感じていた。 「母ちゃんは、分割・民営化までは『首にならないで』と言っていたが、今は、『事故を起こさないで』と『死なないで』に変わってきた」というような会話が、職場のあちこちでされていた。しかし、それは「声」にはならなかった。革マル(組合)と当局から「倒産運動」加担者とレッテルを張られ、強制出向や配転の対象者にされるのが恐ろしかったのである。
『バラ色のJR』からの覚醒…事態は悪化
1988年の東中野事故に至る重大事故の続発によって、JR全体が「バラ色のJR」という夢から、急速に覚醒した。 1982年のヤミ・カラ・タルミキャンペーンから始まった「国鉄労使国賊論」による国鉄解体・分割・民営化の帰結が、結局、膨大な労働者の首切り・要員合理化と重大事故続発の現実でしかなかったのだと、誰にでもわかる形で、突きつけられたのだ。 この事故の連続が、革マルを憲兵とする職場・生産点の締めつけ、「欲しがりません勝つまでは」の竹ヤリ精神称揚に嫌気がさしていた「暗い職場」からさらに、一気に(仕事を)やる気を奪いさっていった。 その後は見るも無残な状況(事故)の連続である。 本線を走行中の上下線の列車が接触する。 本線を走行中の列車が、駅のホームと接触する。しかも、同様の危険が何千ケ所もあるとマスコミに載る。 本線を走行中の列車が、トンネルの天井と接触する。 本線を走行中の列車が、「あっ、線路がない」。
いちいちあげればきりがないが、どのひとつをとっても何十、何百、何千の乗客と国鉄労働者の命に関わる問題を秘めた事故である。国鉄100余年の歴史のなかで、このような惨めな事故の連続がかってあっただろうか。この一事をもって、「国鉄分割・民営化はまちがっていた」と断言しても決して過言ではない。
呪われているのは経営者のモラル
1990年2月11日、東北本線仙台駅で発生した下り寝台特急「ゆうずる1号」の脱線転覆事故は決定的である。 「本線出発進行」で発車した列車が、時速80キロで側線に進入、前部7両が脱線転覆した。ポイントの切替え工事のミスで「信号とポイントが連動していなかった」というのである。 東中野駅事故は、設備上の問題や安全に関する状況を別にすれば、究極のところ運転士一人の注意力に帰する事故である。しかし、「ゆうずる」事故は何十人か何百人か、工事に関わった労働者の誰かが気がつけば起こらなかった事故である。 JR東日本は、東中野事故以降、さまざまの対策を宣伝してきた。それがすべて無力だったことを、この「ゆうずる」事故に至る「考えられない」、「惨めな」事故の続発が、何よりも雄弁に物語っている。 なぜ無力なのか。 第一に、この一連の事故・運転保安の破産状況は明確に経営責任に関わる問題であり、そこを真正面から切開する以外に抜本策はないにもかかわらず、JR東日本経営中枢は、開き直っているだけで、反省のかけらもないことを指摘しなければならない。 JRになって3年、多くの殉職者を出し、乗客までも死なせ、前述したような運転保安状況を招いた会社の重役が、未だに、一人も責任をとっていない。そればかりか、御用組合・JR総連・革マルの存在を背景に、露骨に末端労働者への責任転嫁を策動するのである。この経営中枢の無責任と開き直りは職制全体に蔓延している。 職場・生産点の労働者に対する責任追及は、社内処分、刑事罰、そして「殉職」まで、苛烈かつ無慈悲にやられている。 その一方で、「30秒列車を遅らした運転士」に乗務停止、ボーナスカット、強制配転を躊躇なく断行する職制が、自らに対しては極めて寛大かつ無責任である。 東中野事故の直接の原因とも言うべき「赤信号でも、その信号を越えて進行しろ」という指示を文書をもって行った車務課長の責任を「間違っていなかった」と強弁し、頬かむりしている。さらには、点呼の時に、運転士にまちがった時刻表を渡した助役等末端職制も、マスコミに知られてしまったような「運の悪い者」を除いては、処分も経済的制裁も何等受けない。のみならず職制のミスは、なし崩し的に「なかったこと」にしてしまうのだ。 このような状況を放置したまま「安全教育」や「設備改善」に巨額の「予算」を付けたと宣伝しても、それで安全が確立されるわけがない。問われているのは、経営者のモラルなのである。 第二に、「暗い職場」である。JR東日本では、事故処分にまで組合差別が強行されている。 本来の自分の職務をいかに真面目に遂行し、業績をあげても、それが純粋に評価されることはない。昇進、昇格、昇給、ボーナスカット(アップ)、配転、社宅の入居等々あらゆることに、組合差別が露骨に発動される。これは厳然たる事実である。
マスコミを通じて次々と発表される要員合理化計画。 国鉄分割・民営化によって形成された50才以上と25才以下がほとんどいないいびつな要員構成で、しかも41才以上の社員の割合が5割を超えている現実。事実上「出向協定」となっている「60才定年協定」。
来年からは新採も再開される。 強制出向の恐怖が、末端職制も含め、社員の半数を超える40才以上の社員を覆っている。
要するに、JR東日本は、革マルとこれに結託する一部経営者によって、あたりまえの労働者があたりまえに仕事をやれる環境が全くない会社にされてしまったのだ。 JR東日本は、この事態を、内部に敵(動労千葉、国労)を作り、これを徹底的に、無慈悲に、理屈ぬきで叩き、周囲に恐怖心を持たせることと、スト破り褒賞金のように、労働者の横面を金で叩くやり方によって、乗り切ろうとしている。これは、革マルの党派闘争のやり方…勢力を追い落とし組合支配権を握るやり方…と同じである。 外に向かって「労働委員会は左巻きだ(ママ)」と公言してはばからない姿勢を、権力を振るえる内部へ向けて発動したらどうなるか。その答えが、JR東日本の「暗い職場」と事故多発の現状である。 経営中枢がいくらもっともらしいことを言っても、肝心の生産点が、心の底から「事故防止をしなければならない」と思う体制などになるわけがない。 会社が、革マルと結託した強権的労務支配・恐怖支配・革マルによる「一企業一組合」攻撃を止めることが、事故防止の絶対条件である。このままでは、またとんでもない事故が必ず発生する。
4、いかに闘うのか
動労千葉は、JR移行後、殉職と過労死・突然死が多発するまでに、極度に悪化した職場の労働条件の回復と、清算事業団をはじめ職場から不当に排除された労働者の原職奪還は、同じ課題の裏表であり、同時に解決する以外ないとかう立場からの闘いを開始した。 事故問題が職場の最大の要求であるという視点からの申し入れも再三おこない、「ダイ改」などの節を捉えて解決を求めた。 しかし、会社は「一旦提案したものは間違っていても変えない」、「プロだから事故防止は当たり前」という対応に終始し、職場では、下らないことを押しつけこれを監視するためにチェックマンを徘徊させ、労働者が安全運転に専念することを妨害し、遂には東中野事故を惹起させた。 全職場が怒りに沸騰した。 動労千葉は、直ちに津田沼運転区構内で職場集会を開催し、全組合員による抗議と改善を求める安全確認闘争に決起した。この事故に対し、闘争を指令したのは動労千葉だけであったが、国労その他、東鉄労も含め、圧倒的に多くの運転士が安全確認闘争に決起し、総武・中央線に限らず、「63・12ダイ改」で「1分の到達時間短縮は1000億円の広告効果がある」などという発想でムチャクチャなスピードアップを押しつけられた、全国電区間の列車が連日大幅な遅れを現出する事態となった。 組合所属の如何を問わず、JR総連・革マルを手先に、運転保安無視を押しつけるJR当局のやり方に、全乗務員が怒っていた。東中野事故・平野運転士の死によってそれが一気に爆発したのだ。この安全確認闘争は、組合が職場・生産点の真に求めている方針を提起すれば、労働者は必ず決起することを鮮明に示すものであった。 動労千葉は、この安全確認闘争を起点に、職場・生産点が真に求めている「無理なスピードアップを元にもどす」ことなどについて、団体交渉による解決を粘り強く求めた。しかし、会社当局は、「団交の席に着くだけ」で何等誠意ある対応を示さず、動労千葉に対する組織破壊攻撃をエスカレートさせてきたのである。
職場は怒っている
革マルから「千葉支社におけるJR総連の組織率が低い」と千葉支社幹部の更迭も含めて要求されたJR東日本は、89年春の人事異動後、急速に反動化し、「90・3ダイ改」へ向けた要員操配・55~57予科採用者の運転士、車掌への登用で、徹底的に組合差別をするということを皮切りに、一気に組織破壊攻撃をエスカレートさせてきた。 われわれは、この段階で、明確に新しい闘いの局面に突入したのである。 動労千葉は、第16回定期大会(1989年10月8~9日)で、この事態を見据え、清算事業団決戦段階の闘いと両輪の闘いとして、反合・運転保安確立の闘いを断固として闘うことを決定した。 大会後、4回に渡る文書申し入れを行い解決を求めてきたが、千葉支社当局は形式的に団体交渉に応じるだけで、要求の解決には全く誠意を見せなかった。「本社」から「動労千葉とは話し合うな」、「ストをやらせて叩け」と命令された支社長以下幹部は、事態打開のためのトップによる話合いを拒否し、逃げ回ったのである。動労千葉は、この団交拒否・形骸化の事態を打開するために、当面の要求を整理し、地上勤務者の二波に渡るストを対置して問題の解決を要求した。 千葉支社当局は、この要求をめぐる団体交渉で、東中野事故の事故原因と会社責任の明確化という要求に対して、 ①事故の原因は、すべて当該運転士の「単純ミス」であり、 ②会社責任はマスコミに叩かれたことで充分である。 と回答し、 運転士、車掌への登用に関する組合差別については、 ①動労千葉と国労の組合員は勤務成績が悪い、 ②どこが悪いかは自分で考えろ、 と開き直ったのである。 11月20日と30日、地上勤務者の時限ストは貫徹された。 「12・5スト」も民営化後初めての本格的ストライキとして、清算事業団労働者の原地原職奪還と、東中野事故一周年を期した反合・運転保安確立の闘いとして、当局とJR総連・革マルなどのスト破り攻撃を粉砕して、貫徹された。 この「12・5スト」は、極限的労働強化と「暗い職場」で呻吟する全国鉄労働者の圧倒的支持のなかで貫徹された。 JR移行後、1988年の重大事故の続発から、その後の、「あっ、線路がない」など「考えられない事故」の連続のなかで、「死か牢獄か」を強制されていた職場・生産点の全国鉄労働者にとって、「12・5東中野事故」を真正面に掲げた動労千葉のストライキは、心から共感できるものであった。 この「12・5」から「1・18スト」のなかで、動労千葉は10数名の組織拡大をかちとったのである。
圧倒的に支持された「12・5スト」
この事態は、JR当局とJR総連・革マルを心底恐怖させるものであった。 JR東日本とJR総連・革マルは、動労千葉に対する組織破壊攻撃を一層強めるとともに、自分達が、安全について心配し、対策を考えているかのようなポーズをとる必要に迫られた。 しかし、馬脚はすぐに現れる。 …-申し上げるまでもなく、鉄道事業にとっては安全が基本であって、安全について御客様の信頼を失えば、鉄道事業の経営はできません。われわれ鉄道事業に従事するものは、常に安全を考えていなければなりません。 そういうことで会社ができてから3年間、大変努力をしてきたつもりです。予算的にも国鉄時代と比較して、おそらく倍くらいの支出をしていますし、安全研究所をつくったり、総合訓練センターを設置したり、組織の面でも体制の整備をしています。 やはり、安全性を高めるためには、投資とか組織の整備も大切ですが、同時に社員一人ひとりが「安全は自分の問題だ」という認識を持って、安全性向上についての課題をさがしそれを解決していくという、社員一人ひとりの積み上げが、会社全体の安全性を高めることにつながると思います。 そういう意味で、一昨年から「チャレンジセイフティー運動」を展開しています。この運動がだんだんと実ってきてJR東日本の安全体質というものが高まってくると確信をしています。………
これは、社員向け広報誌「JRひがし」・1990年4月号の「世界一の鉄道会社を目指して」と題する住田社長のインタビュー記事の一部である。 この発言は、 ①鉄道事業の経営のために、安全で信頼をなくすと経営ができなくなるから、安全を確保しなければならない。 ②そのために金をかけて、組織と設備は整備した、 ③この後事故が起これば一人ひとりの労働者の責任だ、 と言っているに過ぎない。 事故で死んだ者に対して申しわけないとか、社員の生活を守るために安全を考えるとかいう方向性は、かけらほどもない。 このインタビューに限らず、JR東日本の経営に、社員や乗客の命に対する配慮など、それが経営責任を問われるという場面でない限り、全くないことはこの間の経過のなかで明らかである。まさに、三好教授の指摘の通り、JRにあっては、乗客や労働者の命などは経営のための手段に過ぎないのだ。
危機感を深めるJR当局と革マル
以上で明らかにしてきたように、JRの三年間で、運転保安をめぐる状況は、人間的な面からも物的な面からも極限的に悪化し、「考えられない事故」の危機は今も続いている。 これは会社当局にとっても革マルにとっても、ひとつの事故が株の上場も大幅黒字も吹き飛ばしかねないという本質からすれば、大変なことであり、この面からも、「4・1国鉄分割・民営化の破産」ははっきりしている。 そこでJR東日大は、莫大な金を使い、例によって「労使一体」で「国際鉄道安全会議」なるものを、10月30日から3日間、東京で開催することを決め、そこへ向けて各支社で「安全フォーラム」を開催することとし、すでに、一部「フォーラム」が開催されている。 この厚顔無恥な計画は、国際的にも国内的にも各方面からひんしゅくをかっているが、これはJR東日本の事故体質を隠蔽するためのイベントに過ぎない。われわれは、この「安全」をもてあそぶ暴挙を厳しく糾弾するとともに、このようなものに幻惑されることなく、職場・生産点から地道に反合・運転保安確立の闘いを創り出していかなければならない。 第一に「事故」とは、諸条件に規定された一定の確率をもって必ず発生する。従って、真の事故防止とは、「事故」を構成する要素を一つひとつ排除・改善して、事故発生の確率を下げていくことなのだという原則を徹底して追求していかなければならない。 職場・生産点から、あらゆる不安全要素を摘発する闘いを展開する。運転関係諸法規や就業規則の内容を吟味し、闘いのための仕組みを組織のなかに確立する。
職場生産点に立脚した大衆的実力闘争を
第二に、この闘いは、徹底的に職場・生産点に立脚した大衆的実力闘争でなければならない。改善を要求はしても請願はしない。不安全要素を摘発し改善を要求する。改善しなければ安全確認闘争など具体的闘いに全員で決起する。 われわれは、われわれの一定の時間を賃金と引替えに資本家に売っている。しかし、命までは売っていない。JRの現状は、われわれに命まで差しだせと言っているに等しい。安全を要求することはわれわれの当然の権利であり、安全の要件を整備・改善することは資本家の義務である。
安心して働ける職場環境を
第三に、以上の基本を踏まえた上で、今、何をしなければならないのか。それは何よりも人間の問題である。 運転保安を構成する最大の要素は人間の心である。 会社は、事故が発生すると人的要素が最大の問題であるとして職場・生産点の責任追求を執拗にやる。日常の「教育」などにおいても前述した社長のインタビュー発言のように「労働者が気をつければ事故は起こらない(だから事・故は労働者の責任なのだ)」ということを重点に思想化しようとする。 しかし、今、会社と革マルがやっていることを百万遍繰り返しても事故はなくならない。逆に事故は増加し、悪質化する。それは肝心なことに目をつむっているからである。 われわれは、安心して動ける職場環境を要求する。 われわれが、プライドを持って働ける職場環境を要求する。 JR当局と革マルは、人間のメンタルな面をズタズタに切り裂いて快感を貪るサディストである。当たり前の労働者はいたたまれない。 まず、何よりも、監視、密告、脅迫、差別をもってする強権的労務支配。職場を覆う出向・首切りの恐怖。その結果としての「暗い職場」。 われわれはこれを粉砕し、明るく働ける職場を確立する。 次に、要員の確保である。 われわれは、「40万国鉄職員から20万JR社員に」要員合理化されて3年。事故多発、殉職、突然死、自殺、われわれの命を蝕む諸悪の根源は、このムチャクチャな要員合理化のなかにある。 「標準数」を粉砕し、年休のとれる要員を奪い返そう。 運転士をはじめ、殺人的労働条件を緩和するための要員を奪い返そう。 そのためにも、われわれは、清算事業団へ強制配属され、解雇された国鉄労働者をはじめ、強制出向・配転された者の原地原職奪還をかちとらなければならない。 われわれは、国鉄分割・民営化に対して、「国鉄で第二の日航機事故を起こすな!」をスローガンに掲げて闘ってきた。 われわれは、今、「闘いなくして安全なし!」という安全確保の原点を死守しなければならない。安全は、われわれの反合闘争のなかにあり、日常的職場抵抗闘争のなかにある。『これを資本と御用組合に委ねたらどうなのか。 その答えは明日である。自らの誤りで事故を多発させ、多くの労働者を死に至らしめたにもかかわらず、一切の責任を末端労働者に押しつけて恥じない、JR当局に対し、われわれは、労働者と乗客の命を守る闘いを、不退転の決意で、闘い抜かなければならない。
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